インバウンド需要の急回復と「食」の多様化が求められる背景
訪日外国人数と観光の最新トレンド(2025年時点)
コロナ禍を経て、日本を訪れる外国人観光客の数は急激に回復しています。日本政府観光局(JNTO)のデータによれば、2024年には約2,500万人が訪日し、2025年には3,000万人を超える勢いです。
特に注目すべきは、アジア圏だけでなく、中東や欧米諸国からの観光客も増えているという点です。円安の影響に加え、日本ならではの文化体験が人気を集め、単に「観光する」だけでなく、「その国ならではの体験を深く味わいたい」というニーズが高まっています。
その中でも、食体験の多様化は大きなテーマです。観光庁による「訪日外国人消費動向調査」(2024年度)によれば、旅行者の約70%が「旅先での食事」を最も楽しみにしていると回答。飲食店が果たす役割は、これまで以上に重みを増しています。
「食の多様性」への関心が高まる理由とは?
旅行者が求めるのは、単に“おいしい日本食”ではありません。いまやその関心は「自分の価値観や文化に配慮された食事」にシフトしています。
この背景には、宗教・文化・健康など、さまざまな理由があります。
- 宗教的制約(ハラール、コーシャなど)
- 環境問題や動物福祉への意識からのヴィーガン・ベジタリアン志向
- 健康上の理由によるグルテンフリーやアレルゲン除去食のニーズ
たとえばムスリムの旅行者にとって、ハラール対応は欠かせない要素です。食材に豚が含まれていないか、アルコールを使用していないか、調理器具が専用のものであるかなど、安心して食事ができる環境整備が求められます。
一方、欧米を中心に広がるヴィーガンやベジタリアンのニーズも無視できません。特にSNSや旅行アプリ「HappyCow」などでは、日本の飲食店に対する「情報が少ない」「対応が遅れている」といった声が目立ちます。こうした価値観に寄り添えるかどうかが、顧客満足度を大きく左右するのです。
観光庁が推進するベジタリアン・ヴィーガン・ハラール対応の方針
こうした時代の変化を受け、観光庁は2023年に
「ベジタリアン・ヴィーガン・ムスリム旅行者対応の手引き」
(公式リンクはこちら)を公開しました。
このガイドラインでは、以下のような方針が明確に打ち出されています。
- 各国の宗教・文化的背景を理解すること
- メニューの多言語化、ピクトグラムなど視覚的配慮の導入
- 原材料や製法の「透明性」を持った情報提供
また2024年度からは、各地で「食の多様性対応セミナー」の開催が本格化。さらに「対応店舗マップ」の整備や、民間へのアドバイザー派遣など、飲食店支援の取り組みも広がりつつあります。
加えて、観光庁は「食のユニバーサルデザイン」を掲げ、全国の飲食事業者に対して文化的配慮と持続可能性を両立させた店舗運営の促進を呼びかけています。もはや、こうした対応は“あると嬉しい”ではなく、“なければ選ばれない”時代に入っているのです。
飲食店が直面する課題と「対応が遅れるリスク」
多様な食文化に対応できていない現場の実情
「インバウンド対応が必要だと感じてはいるけれど、何から始めたらいいかわからない」という飲食店は少なくありません。実際、調査によれば、訪日客の7割が「自分に合った食事を見つけるのに苦労した」と回答しており、食のバリアは依然として大きな課題です。
多くの飲食店では、日本人客を主としたメニュー設計やオペレーションが前提となっており、
・宗教的制約を考慮した食材の区別
・ヴィーガンへの代替食材の対応
・アレルゲンや原材料の表記
といった項目がまだまだ整備されていないのが実情です。
また、スタッフが異文化対応に不慣れであることも多く、問い合わせへの受け答えや、ハラール・ヴィーガン対応の説明に苦慮するケースもあります。これは現場の忙しさや教育コストの問題だけでなく、情報が不足していること自体が最大のボトルネックとなっています。
対応しないことによる機会損失と口コミリスク
対応していないからといって、問題が表面化しないわけではありません。むしろ、対応していないがゆえに「選ばれない」「評価を下げられる」という事態が静かに進行しています。
SNSやGoogleマップのレビューでは、
「店員がヴィーガンを理解していなかった」
「ハラール対応だと聞いたのにアルコールが使われていた」
といった口コミが拡散され、一度ネガティブな印象を持たれると、他の訪日客も避ける傾向があることが分かっています。
逆に、完璧でなくとも「対応しようとする姿勢」が評価される場面も少なくありません。
たとえば、
- 簡易的でもヴィーガン対応メニューを用意している
- 食材表示を英語とピクトグラムで提供している
- 「相談に応じます」とひと言添えてある
といった取り組みは、小さな工夫であっても顧客の信頼につながるものです。
対応をしないことは「機会損失」であり、「ブランド低下」に直結する可能性があるということを、今あらためて見直す必要があります。
2025年以降に向けた「選ばれる店」と「選ばれない店」の分岐点
2025年以降、インバウンド需要の本格的な回復とともに、「どこで食べるか」の選択肢はさらに増えていきます。訪日客が“わざわざその店を選ぶ”ためには、他店にはない配慮や対応が求められます。
選ばれる飲食店になるために必要な条件とは──
- 宗教や文化へのリスペクトが感じられること
- メニューや情報が多言語・わかりやすく整備されていること
- SNS・検索で「対応している」ことが明確であること
これらはもはや付加価値ではなく、新しいスタンダードです。今動き出す店舗と、動かない店舗の差は、数年後には「外国人にとっての存在価値そのもの」に関わってくるでしょう。
そしてそのスタートは、派手な投資や制度導入ではなく、小さな一歩から始められるものです。
ハラール・ヴィーガン対応の基本|知っておくべき基礎知識
ハラールとは?イスラム教の食文化を正しく理解しよう
「ハラール(Halal)」とは、アラビア語で「許されているもの」を意味し、イスラム教徒(ムスリム)が日常生活で口にしてよい食べ物や行為のことを指します。逆に「ハラーム(Haram)」は「禁じられているもの」です。
飲食店が対応すべき最も重要なポイントは、「食材の選定」と「調理・提供のプロセス」です。具体的には以下のような注意点があります。
- 豚肉やその派生物(ゼラチンやラードなど)は使用しない
- アルコール(酒・みりん・料理酒など)もNG
- ハラール対応の肉(イスラム法に則った屠畜)を使用
- 調理器具やまな板、油なども「ハラール専用」にするのが理想的
ただし、すべてを完璧に対応するのは簡単ではありません。そのため、「完全ハラール対応レストラン」ではなく、「ノンポーク・ノンアルコールメニューを提供しています」など、可能な範囲を明示することが重要です。
また、観光庁やハラール認証団体が発行するガイドラインを参考にしつつ、自店のポリシーを明確にすることが、信頼につながります。
ヴィーガン・ベジタリアンの違いとニーズ
一方で、「ヴィーガン」と「ベジタリアン」は混同されがちですが、細かな違いがあります。
- ベジタリアン(Vegetarian):肉・魚を避けるが、卵や乳製品は摂取する人もいる
- ヴィーガン(Vegan):動物性のすべての食品(肉・魚・卵・乳・蜂蜜など)を避ける
ヴィーガン志向の人々は、宗教的な理由よりも、動物愛護・環境保全・健康志向といった倫理的・ライフスタイル的な理由で選択している場合が多く、食材の出所や調理法に強く関心を持っています。
また、「植物由来=ヴィーガン」とは限らず、調味料やスープのベース(鰹だしなど)に動物性が含まれていないかどうかも重要なポイントです。見た目は野菜料理でも、出汁に魚を使っていればNGとなることもあります。
対応する際には、単に「野菜が多い料理を出す」だけではなく、素材の透明性と調理工程の明示が欠かせません。
共通点と相違点:対応に必要な基礎知識まとめ
ハラールとヴィーガン、それぞれの対応には違いがあるものの、共通して求められているのは「安心して食べられる環境」である点です。両者の共通点と相違点を簡単に整理すると、以下の通りです。
項目 | ハラール対応 | ヴィーガン対応 |
---|---|---|
禁忌食材 | 豚肉、アルコール、ハラームな食品 | すべての動物性食品(肉、卵、乳、蜂蜜など) |
重点項目 | 食材の宗教的許可、調理器具の分離 | 動物性素材の完全排除、調理工程の確認 |
理由 | 宗教的な戒律 | 倫理観、環境保護、健康志向 |
表示の重要性 | 認証やピクトグラムでの明示が必要 | 食材リストの開示と動物性排除の明記 |
両者とも「完全に対応しなければならない」と構えすぎずに、「できる範囲を明示し、誠実に伝える」ことが対応の第一歩です。
また、観光庁の資料や専門団体のガイドラインなどを活用すれば、初めての飲食店でも段階的な導入が可能です。
具体的にどう対応する?|飲食店でできる実践施策
ハラール認証は必要か?対応レベルの選び方
「ハラール対応」と聞くと、多くの飲食店がまず思い浮かべるのが「ハラール認証の取得」です。しかし、実際のところすべての飲食店に認証が必須というわけではありません。
たしかにハラール認証(例:日本イスラーム文化センターや日本ハラール協会など)は、宗教的に厳格なムスリムにとっては大きな安心材料になります。ただし、取得には時間・コスト・運用の手間がかかり、すべての店舗が対応できるわけではありません。
そこで現実的な選択肢としては、以下のような段階的アプローチが有効です。
- ステップ1:ノンポーク・ノンアルコールメニューを用意
- ステップ2:ハラール食材(認証済み肉など)を一部導入
- ステップ3:専用の調理器具・食器・まな板などを使い分ける
- ステップ4:必要であれば、正式な認証取得も検討
大切なのは、認証の有無よりも「どういうレベルの対応をしているのか」を明確に表示・説明できることです。誠実な情報提供が、信頼獲得のカギとなります。
ヴィーガンメニュー開発のポイントと簡易対応例
ヴィーガンメニューの開発においては、いくつかの基本ルールを押さえることで、意外とスムーズに導入できます。以下は初めてでも取り組みやすい工夫です。
- 出汁を昆布や干し椎茸など植物性に変更
- 肉の代替として豆腐、高野豆腐、ソイミートを活用
- 卵や乳製品の代わりに植物性ミルクやアボカド、豆乳ヨーグルトを利用
- 動物性調味料(ナンプラー、鰹節など)を排除
たとえば、通常のラーメンを「野菜だしベースのヴィーガンラーメン」にアレンジするだけでも、SNS上での注目度は大きく変わります。
ポイントは、「これはヴィーガン対応です」とはっきり表示すること。中途半端な対応は逆に不信感を招きかねません。仕入れ先や調理法の説明があると、より信頼感が高まります。
スタッフ教育・接客時の注意点
対応メニューが整っていても、現場のスタッフが正しく理解していなければ本末転倒です。
とくに気をつけるべきは以下の点です。
- ヴィーガンやハラールの定義・食材ルールを把握しているか
- お客様に聞かれたときに正確に説明できるか
- NG食材が含まれている場合、代替メニューを提案できるか
- コミュニケーションが丁寧かつフレンドリーであるか
すべてのスタッフが完璧に説明できなくても問題ありません。重要なのは、「対応しようとする姿勢」と、「わからないときに正しく確認できる体制」です。研修資料を作る、簡単なマニュアルを設置するなど、小さな工夫が信頼につながります。
多言語対応メニュー・ピクトグラム活用
インバウンド客への配慮として、視覚的にわかりやすいメニュー表示は必須です。
- 英語・中国語・アラビア語などへの翻訳(簡易なものでOK)
- 「豚不使用」「乳製品不使用」などのアイコン(ピクトグラム)の活用
- アレルゲン表記の追加
- メニューや店頭の掲示に「ヴィーガン対応あり」と記載
特に観光庁が提供している「多言語メニュー作成支援ツール」や、ハラール・ヴィーガン対応の共通ピクトグラム(無料配布)などを利用すると、手軽かつ正確な情報発信ができます。
また、GoogleビジネスプロフィールやSNSで「ヴィーガン・ハラール対応」のタグを明記することで、検索時のヒット率が向上し、集客にもつながります。
公的支援・補助金制度を活用しよう(観光庁・自治体など)
観光庁が進める支援事業と応募方法
飲食店がインバウンド対応を進めるうえで、費用や人手不足は大きな課題です。そこで活用したいのが、観光庁や地方自治体による公的支援制度です。
観光庁では、2023年以降「食の多様性対応促進事業」として、以下のような取り組みを支援対象としています。
- ヴィーガン・ベジタリアン・ハラール対応メニューの開発
- 多言語対応メニューの作成・掲示
- スタッフ研修やセミナーへの参加費用
- 店舗の改修や専用調理設備の導入(一部条件あり)
実際に2024年度には、全国200店舗以上の飲食店がこの制度を活用し、メニュー整備や教育体制の強化に取り組みました。
公募は年1回程度で、観光庁の公式Webサイトや「食の多様性対応情報サイト(※)」で案内されています。事前相談や簡易申請も可能で、初めての店舗でもハードルは比較的低めです。
※参考リンク:観光庁 食の多様性対応推進事業
地方自治体による補助・アドバイザー派遣
地方自治体レベルでも、インバウンド対応を支援する動きが広がっています。特に、外国人観光客の多い都市(東京・大阪・京都・福岡など)では、独自の補助金制度や専門家の派遣制度が整備されつつあります。
たとえば大阪府では、飲食事業者向けに「多言語メニュー作成支援」や「ムスリム対応アドバイザー派遣」を実施。導入費用の一部補助に加えて、マーケティングやSNS発信の相談までサポート対象となっています。
地域によって申請方法や対象経費は異なりますが、いずれも「相談すれば何かしらのサポートが受けられる」状況が整ってきています。商工会議所や地元の観光協会に問い合わせると、具体的な制度や窓口を教えてもらえます。
無料セミナー・導入サポートの活用術
「いきなり対応に踏み切るのは不安…」という方には、まず無料セミナーや相談窓口の活用がおすすめです。
観光庁やJHBA(日本ハラールビジネス協会)などの専門団体は、定期的に以下のような無料講座やオンラインセミナーを開催しています。
- ヴィーガン・ハラール基礎講座(Zoom開催あり)
- 飲食店向け個別相談会
- 対応メニュー作成ワークショップ
- 食材仕入れや業者紹介のマッチング支援
これらのプログラムを通じて、「何をすればよいか」「誰に相談すればよいか」が明確になり、対応の第一歩を安心して踏み出すことができます。
情報収集だけでも十分な価値がありますので、まずは観光庁の公式サイトや地域の商工団体の情報を定期的にチェックすることをおすすめします。
まとめ|インバウンド対応は「未来の標準」
対応はコストでなく投資。持続可能な店舗運営の鍵
ヴィーガンやハラールなど、食の多様性への対応は、単なる“追加対応”や“特殊ニーズ”ではありません。むしろ、今後の飲食業界において標準装備として求められる視点です。
対応にかかるコストや時間はたしかに存在します。しかし、それを「負担」と捉えるのではなく、将来の顧客を獲得するための“投資”と考えるべきでしょう。
とくに人口減少が進む日本において、外国人観光客は今後ますます重要なターゲットになります。「多様性に配慮できる店」であることは、国内外を問わず、信頼されるブランドの条件になりつつあるのです。
今すぐ始められること3選(無料対応編)
「すぐにはメニューを変えられない…」「厨房の改装は難しい…」
そんな店舗でも、今日から始められる施策はたくさんあります。代表的なものを3つ紹介します。
- GoogleマップやSNSのプロフィール欄に「ヴィーガン・ハラール対応相談可」と記載
- 既存メニューの中で、動物性不使用の料理にマークをつける
- 多言語対応メニューを観光庁の無料テンプレートで作成・掲示
これだけでも、「この店は対応してくれそうだ」という安心感を与えることができます。大切なのは、“できる範囲”で行動を始めること。対応する姿勢そのものが、選ばれる理由になります。
対応の積み重ねが、海外客との信頼につながる
最初から完璧を目指す必要はありません。むしろ「一歩ずつ前に進もうとする姿勢」こそが、多様な価値観を持つ訪日客にとっての最大の信頼材料です。
メニューの表示、接客時の対応、情報発信の工夫——その一つひとつが、未来の顧客との“架け橋”となります。
インバウンド対応は、ブームではなく「これからの飲食店にとっての前提条件」。
自店の価値をより多くの人に届けるために、今ここから、小さな一歩を踏み出しましょう。